わたりあるくblog

blogをわたり歩きながら思ったこと感じたこと書きます

愚かさと賢さと

あるとき学校の先生が
クラスのみんなになぞなぞを出した。
みんなはうんうん唸って答えをさがしていたけど

僕はその答えがすぐにわかった。
なぜわかったかというと
その日はたまたま冷めていたからだ。
みんなはそのなぞなぞの一字一句を
鵜呑みにして想像まかせに想像させられて
答えを導くのに長い間苦労していたようだけど
僕は冷めていたせいで
問題を解く目くらましに邪魔されず
その問題の答えがすぐにわかった。

数年たった今
ビジネスの現場で
時々相手が
ちょくちょく騙してくる嘘を
冷めた目で見破ることがある。

はっきり言って
自分はあまり頭の回転は良くないほうだ。

よくないからこそ
騙されない嘘があるというのは

果たして賢いとは何ゆえか
愚かなあたまで考えてしまう。

原発問題とキリスト教

あるひとりの少女が原発の問題について語っている間
自分の目に始終思い浮かんでいたのは
日本のキリスト教会の現状そのものだった。

エネルギー生産の末期に
人類の欲求として
原子レベルの探求が始まり
癌が進行して国が内側から崩壊していく様を
彼女はたんたんと語っていくのだが

僕はそれを聞きながら
今後の教会の姿をイメージしていた。

エネルギーの利用は人々の生活に欠かせない
支えになってくれている一方で
専門的レベルで燃料の核になる原子が
人体に悪影響を生み出すことも、
絶対安全と言われていた
頑丈な建造物が爆発して砕けるという事実も
人類は知ってしまったのだ。

原発をなくそう…
そうすれば全ての問題が
解決するように思えるのは
表面しか見ようとしていないからだが、

根の深いところで原子はなくなったりしない。

原子エネルギーの生産をやめさせたところで
原子を利用した新たな開発を
今後も見張っていくつもりなのだろうか

あるいは別に言い換えると、
神の奥義を尽くしたキリスト教会を
なくしていこう
と言っているのと同じ発想だ
なぜなら教会というのは
誤った用い方では
世代永功に癌を発生させる
要素を抱えているし、
遅かれ早かれ、築き上げてきた
教会の分厚い壁を崩壊させる
力をも持っているからだ。

事実を知ってしまった後で人が考えるのは
どのようになくしていくかではなく
どのように共存していくかではないかと思う

自分は原発事故を経てその悲惨な状況を見れば
原発反対だが
ただし使い方による、
ということを考えていた。

知は地に埋めて隠すものではなく
それを用いるものだ。

嘘をつく理由

電車に乗っていると、

人がたくさんいるところに出かけると、

目に飛び込んでくる景色がモノを言ってくる

 

自分の頭の中はどうなっているのかしら。

 

自分は現実逃避ばかりしていて、

現実と非現実の区別ができていない。

でも現実をわかっているからこそ、

 

目の前を歩いている彼らと自分とは違うということが、

わかるのだし、こうして言葉をしゃべっているんだろう

 

でもはっきり言って最近自分が考えていることを言葉で説明するのも面倒。

 

面倒なことを誰も共有したりしないし

触れたくもないし

 

だから世の中というのは

あたりさわりもなく

こう動いて見えるのだ

ということは

だいたいわかりきっている。

 

わからないことについての共有は不可能と

これから出会う人に自分は嘘をつき続けなければいけない

ということはきっと

あの人も同じだっただろう。

自由であること

この世界に自分を救ってくれるような

主人などいないということを知っている。

ただ、いつも幸せな人というのは

いるものだなということは知っている。

 

信じる人がいるのと同様、

疑う人も同じ数だけいる。

互いに同じ星の中で生きているが、

決して混ざることはない。

けれど、そんなことどうでもいい。

自分は生まれつき疑う人だ。

 

今まで教わった知識を疑い、

狡猾な生き物の教えを信じ、

食べてはいけないリンゴをかじり、

勝手に不幸になってわめいている。

 

籠の中の鳥がどう見えるか、

そりゃよく見える。

 

自分はあの籠には戻りたくない。

なぜなら、籠の中だからだ。

窮屈でしょうがない。

 

好きにしな、

外へ出てしまった自分に

籠の主人はそう言った。

なんだ、前と言っていることは同じだ。

でも前と違うのは、

あなたが自分の主人ではないということ。

 

ぼくはでしゃばりじゃないから、

この先、楽園を追放された時の話は

別なところですることにするよ。

まぁどこへ行っても受け入れられる話ではないが。

 

 

AであるかBであるか

物事を正確にとらえようとするほど

私はこういう者で、こう思うという

主義主張がなくなるので、

 

改めて他人の言動に

疑問を持たざるを得ないのだ。

 

物事を正確にとらえるということが、

またそれも主義ではないかと言われようと、

それが真実か否か自分でもよくわからない。

 

しかし、そのようにあなたが

求めている主張も、正確さにおいて

疑われ続けているのである。

 

私は男であるか、女であるか

右であるか左であるか

日本人であるか、ゆだやじんであるか

共産党か平和主義か理想主義か

思い込んでいることも

すでに疑われているのである。

 

戦争は、

はっきり

自分が何者であるか

思い込み

その主張のために

引き起こされる。

 

しかし、

国籍、

宗教、

肌の色、

年齢、

考え方など、

彼らにしみついていてとれないので

またそれはそれで悲劇になる

 

本当に敬虔な人は

思っていることを、言葉より先に

黙っているのではないかと思う。

 

賢い人は、

知っていることを

黙っているのではないかと思う。

犬はなぜ犬か

昔、犬はなぜ犬なのか、

考えていたことがある。

 

犬を猫と言わず、

犬と言うのはなぜか。

 

当たり前ほど

おかしなことはない。

 

「犬」と言えば誰もが

ニャーともメーともブヒーとも言わない

ワンワン吠えながら

しっぽふってなついてくる

あの動物を連想するが

別にニャーと言って高い所に上ってすました顔をしている奴についても、

犬と呼んでもかまわない気がするのだが、

奴にはまた別の名前がついている

 

昔インテリという言葉の意味を知らなくて

キラキラ輝くシャンデリアのようなものを想像していたのだが、

どうやら間違って覚えていたらしいのだ。

そして、インテリと言われる人たちのことを、

シャンデリアのような輝く人を連想していたのだが。

あながちそれも間違っていないかもしれないが、

そんなこと言ったら馬鹿と言われるだけだ。

 

名前には全て意味がある。

在るもの全てに名前がある。

名前の違いは、意味の違いである。

犬も在る

猫も在る

在るものは在る

在るものは犬

在るものは猫

在るものは〇

在るものは※

在るものはζ§Ц

ζ§Цが在るとはどういう意味ですか?

 

昔、意味とは何か考えてたことがある。

犬がいます。

猫もいます。

しかし、犬と言う意味は存在しているのか

猫という意味は存在しているのか。

 

このあたりになると、

意味など存在しないようにも思える。

いるのか、いぬのかはっきりしない存在を

存在しているかのように話す

言葉の中で何が起きているのか

 

天地創造

神は光あれといった

 

光を造った神は

光そのものを造られたのか

光という意味を造られたのか

光そのものを神がお造りになられたとして

光という意味は誰が造ったのか

 

昔、犬はなぜ犬なのか、

考えていたことがある。

生きること

楽観的なことを申しますと、

自分はこのかた生きたくて

生きているのではないのです。

なぜこのような思いをして社会の人たちに

顔色伺いして、時には怒鳴られながら、

陰口言われながら、上司のお伺いを立てながら

我慢して、働きながら、監視されて

笑顔を絶やさず、感謝をして、

生きなければならないのでしょう。

この間、会社の上司にひっぱたかれました。

彼は自分の利益を出すことにどんな手口も使います。

人を騙すことも平気です。相手が損失を被っても平気です。

自分はそのことに共感できないという意志を伝えたら

ひっぱたかれました。

もう疲れているせいか

抵抗する気力も起こらず、

痛みも感じませんでした。

欲を言いますと、自分が一日の中で

一番幸せなのは、寝るときです。

この社会というのは疲れを口にすることさえ

時と場合をわきまえなければなりません。

それでも生きている暇をもって

神様に感謝をしているのでしょう。

もうもとから生きていることに疲れました。

どうか安らかに眠らせてください。

欲しいものも何もありません。

こういう極限の状態でいると

思うこと思わないこと、

言った言わない

その差について問うことも

あまり重要なことではない気がします。

願うことならば、子供たちには

未来を窮屈に生きてほしくないものです。